悩んだ挙句、前向きにススム。
本当にどうしたものか。
勉強は手につかないし、日増しに日中帯はとても眠気があるし、何で勉強しているのか正常な思考ができなくなる。
明らかにおかしい。
勉強に手が付かない理由はわかっている。何度となく試験に落ちているからだ。
これで何回目だろう。3回落ちたのか。
15,000円×3回= 45,000円
飽きないもんだ。
思い出してみたら、留学中$150のテストを毎月受けていたのだから、
45,000円は安いもんだと思う。...しかしそういう問題でもない。
なぜ通らない。なぜいつもあと数十点足りない。
原因: 正確に覚えていないから。覚える必要があるのか、迷いがあるから。
ずっと使う内容かというと、使う内容である。
それがわかるかわからないか、でやる仕事領域も変わってくるし、幅も広がる。
今の仕事に責任が伴わない、といえば明らかに嘘だが、更に責任が伴う仕事が舞い込んでくることは確かだ。
また生計をたてる上で、それはなくてはならない要件である。
3年前の「なぜその業界を目指すのか」という質問への回答にもなる。
なぜか。自分で稼いで生きていく為。
少なくとも変わり続けるこの世の中で、学び続けるのは一つの生きぬく手段だと思っている。あるいはひとつのことに対して「プロ」になることも一つの手立てだろう。
もう3年が経とうとしている。
息をひそめて3年、いろんなことがあり、幸いにも多くの助けもあり、多くの出会いと残念ながら別れがあった。
今は一つの転機だと思う。
何度やっても通らぬ試験、去るもの、立ち向かうものがいて、それを目にしながら、私は立ちすくむ。どうしたらよいのか。
私はどのような人か、と父と話したことがある。
「去る者を追わず、向かってくるものを受け入れる」
どっしりと構え、しかし動かぬ、山のような...
昔はもっと平然として、淡泊な人だったような気がしているのは己だからか。
今は平然よりは、感情もあることはある。
昔は人形のように、利口だったような気がするのは、よいように考え過ぎか。
今は荒ぶる人で、口も出すし、わめくし、何よりお祭り騒ぎが好物である。
変わったこと、変わらないことがある。
少なくとも表面的には、変わった。
しかし昔の私は内面に残っている。たまにちらつく。
正確に回答できていた、中学生時代は、どんな勉強をしていただろうか。
「それ以外生きる道がない」「私からそれを取ったら何が残るというの」
追い込まれていた。存在意義が見えなくて、追い込まれていた。
自分の良い点、悪い点を自分で見ることができなかった。
今、見えているか、というと、人に聞いてみることにしている。
ざっくり「私はどうでしょうか」と。
正直焦りはある。周りにいた学友は海外へと旅立ち、思い思いの生活をしている。
私は、というと「何しているの」と尋ねられると「何しているんだろうか」と悩んでしまう。
檻の中に飼われている、という表現が正しいだろうか。
思い切って業界に入ってみたけれど、実際自分が何をしているかというと、言い表せない。
一つ言えることは「人と関わって、何か作ったり話したり、説明したり、整えたりする仕事をしているよ」というざっくばらんな内容だけだ。
間違ってはいない、が言い表しにくい。
「オペレータの範疇はとっくに超えているし、でも必要なポジションだよね」
困ったことに、その立ち位置はSVでもなければ、何でもない。
枠に当てはまらない仕事ってあるものだ。
規格外の仕事、というとかっこいい気がするが、可能であればある一定の道も進んでみたい。
だとすると、圧倒的に知識が足りない、実践が足りない。
補うためには、何をするのか。もう私は先人にもロールモデルにも、出逢っている。
やり方は自由。中学時代のやり方を踏襲してもいい。
大学1年の夏を踏襲してもいい。
思いっきり勉強したあの5か月に戻ってもいい。
自分の人生だもの、自分で切り開こう。